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[前回:Webの運命を変えたブラウザ、Mosaic]

Mosaicの人気は、まだ黎明期のインターネットにおいて、一つの社会現象となりつつあった。任天堂のファミコンが市場を席巻してすべての「家庭用ゲーム機」が「ファミコン」と呼ばれるようになってしまったのと同じように、「Mosaic」が「Web」の意味で使われるようになるほど、MosaicはWebの普及を急速に後押ししていた。

しかしそれは同時に、最初のWebを作った研究者達にとっては悩みの種にもなっていた。誰でも自由に・平等に研究資料を読めるようにと作ったWebが、Mosaicのせいで、写真や文字装飾の溢れる雑多なものとなってしまい、Mosaicでなければ読めないページが急増していた。たった一つのWebブラウザだけにWebが支配されるのは、彼らにとっては望ましいことではなかった。

1993年7月。欧州原子核研究機構の研究者であり、Webの生みの親でもあるティム・バーナーズ=リーを筆頭に、アンドリーセンを含むMosaic開発チーム4名や、画像を表示できない環境で人気のWebブラウザ「リンクス」の開発者ルウ・モントゥーリなど、Web関連ソフトウェアの世界で著名なおよそ25人の開発者達が、ボストンに集結した。Webの将来を考えること、それが目的だった。

Mosaic開発チームはこの会議の場で、技術力と実行力の高さを大きく評価された。しかし、慎重な姿勢を持つ者達からは、実用性第一で突っ走るMosaic開発チームは、Webの理念をむやみに破壊する存在として、危険視されつつあった。

逆に、Mosaic開発チームにとっては、ブレーキをかけられる事が腹立たしかった。理想主義的な研究者達よりも、現実的で実利主義の自分たちのほうが、Webをより良い方向に導いていける。自分達こそがスタンダードである。彼らは自分たちの成功に、プライドを感じていた。

* * *

ニューヨークで最も多くの人に読まれている新聞、ニューヨーク・タイムズ紙も、Mosaicを記事として取り上げた。だが、その記事にはNCSA所長のスマールとアンドリーセン達の上司のハーディンの二人だけが写った写真が添えられ、いかにもMosaicがNCSAという組織の大規模なチームワークで生み出された物であるかのように扱われていた。実際にそれを生み出したのが、アンドリーセンとビナというたった二人の若者であったにもかかわらずである。

NCSAの管理職の人間達は、Mosaicの人気が高まるにつれて、それをNCSAの評価と収益に結びつけるために、動き始めた。そんな彼らにとって、Mosaicの開発チームのメンバー個人個人がMosaicの利用者達から神やスターのように祭り上げられているのは、許し難い事だった。Mosaicは確かに彼らが開発した。しかし彼らはNCSAに雇われて開発を行ったに過ぎない。だからMosaicは彼ら個人の物ではなく、NCSAの物である。それが、彼らの考えだった。

チームを一般の支持者から隔離して、プログラムの記述作業だけに従事させるために、彼らは若き技術者達を少しずつ縛り始めていた。実用性と面白さを第一に開発されたMosaicに、何の面白みもない学術的な機能を加えるよう求めたり、Mosaicの利用者から寄せられたメールを読むことを開発チームに対して禁じたりもした。自分自身の好奇心から開発を始め、利用者から送られてくるメールを活動の原動力にしていた、独立心の強い若者達にとって、これはとても許しがたい横暴だった。

アンドリーセン達が開発したはずのMosaicは、いつの間にかすっかり彼らに取り上げられ、NCSAの所有物となってしまっていた。役人気質の強い管理職の人間達と、自由を求めるアンドリーセン達の開発チーム。対立は、深刻化する一方だった。

やがて卒業を迎え、イリノイ大学を去るかどうか決めかねていたアンドリーセンを、NCSAは破格の待遇で研究職に引き留めようとした。だが、それには一つ但し書きがあった。Mosaic開発プロジェクトから手を退くこと。それが、アンドリーセンがNCSAに籍を置き続けるための条件だった。

これはもはや、最後通牒を突きつけられたに等しかった。NCSAに残る道、辞める道、いずれにしてもその先にあるものは同じだった。Mosaic開発プロジェクトの中心にして頂点からの追放。自分の功績を横取りしたNCSAのもとで屈辱の日々を送ることは、アンドリーセンには受け入れられなかった。

そうして1993年末、アンドリーセンは深い失意のうちにイリノイ大学とNCSAを去った。

[マーク・アンドリーセンはNCSAを去り、Mosaicの開発から離れることとなった。(イラスト)]

* * *

NCSAを去ったアンドリーセンは、コンピュータビジネス発祥の地であるシリコンバレーの一角、カリフォルニア州・パロアルトで、Webサーバ開発を手がけていたソフトウェア開発会社・EITに就職し、日々を送っていた。

そんな彼のもとに、ある日、一通の電子メールが届いた。

「君と新しい会社を興したい。」メールの差出人は、ジム・クラーク。NCSAでアンドリーセンも使っていた高性能ワークステーション「インディゴ」の開発元であり、ハリウッド御用達の3Dグラフィックス用コンピュータのメーカーとして知られる、シリコン・グラフィックス社の創業者その人であった。

やがて未曾有のインターネットバブルを引き起こす、伝説的な企業。その創始者達が、出会った瞬間だった。

(文責:下田洋志)

(参考資料:「マイクロソフトへの挑戦 ~ネットスケープはいかにしてマイクロソフトに挑んだのか~」 著:ヨシュア・クイットナー/ミシェル・スレイターラ 訳:安蒜康樹 刊:毎日コミュニケーションズ、「Webの創成 World Wide Webはいかにして生まれどこに向かうのか」 著:ティム・バーナーズ=リー 監訳:高橋徹 刊:毎日コミュニケーションズ)

[次回:インターネットビジネスの萌芽]